2023年11月8日 作成開始
2023年12月18日 更新
見出し写真: 宮古街道箱石地内の鈴久名との境にある、川井中学校北の”早坂”に残っている一里塚です。
宮古市内の宮古街道で唯一残っている一里塚になります。
(私有地ですので、登り口にある家で声掛けしてから山に入ってください)
すべての著作権は筆者に属します。
▶近世はじめ、箱石・鈴久名~平津戸間の宮古街道は”榊街道”であった!?
近世宮古街道の区界峠から東は、区界から松草付近までは険しい川筋の渓谷などは少ないものの、田代から去石あたりは閉伊川の縁の
地盤に岩盤が広がり、水が染み込みにくい地質のため、湿地の状態で、歩きやすい所にも丸太を敷き詰めて道としていた場所が多かったという。大滝、門馬から東は、川縁まで岩山・岩崖が迫り、川べりに道を作り利用するのは人力での工事のみしかなかった時代には、通ることも困難な場所が多くあった。この状況は門馬から平津戸、川内、箱石あたりまで続く。このあたりも川の縁に道を整備構築できたのは、江戸期も中ごろの牧庵鞭牛和尚の宮古街道筋の難所の開削あたりからと考えられる。最も古い国絵図である正保国絵図控では、箱石~平津戸間は閉伊川の縁に道跡は描かれていない。箱石、鈴久名から南側の山の稜線を伝い、焼山と言われる榊山を通り、平津戸に下る道=”榊道”が国絵図に街道として描かれ、これが宮古街道であったと考えられる。その約100年後の元文年間に描かれた”宮古通絵図(もりおか歴史文化館所蔵)には、箱石~平津戸間は閉伊川沿いに道が描かれており、この間に川沿いに街道が造成されていったものと考えられる。
むろん、ほそぼそと閉伊川に沿う道は、鎌倉時代に閉伊氏が宮古に入り、その家臣を閉伊川沿いに配置した時以前から川沿いに人が歩ける程度の道はあったはずではあるが。
榊街道は踏査が容易でないため、今後可能な時に少しずつ踏査をすすめたいと思います。
A)区界峠から大峠・下平(したでえら)
◆江戸時代初期に宮古街道であった”榊街道”。
(=平津戸から南東のサカキ沢の長根を”榊長根”に登り、榊山(=焼山)を経由して、鈴久名で閉伊川縁に下りる)
:赤の点線
この榊街道はいまだ踏査はできておらず。各種資料から赤の点線で道筋を示します。その街道筋には焼山の鈴久名側に3か所のお茶屋がありました。当然雪のため冬季は歩けなくなったと思われます。しかし閉伊川筋の川沿い、断崖岩場と比べれば山を登り下りしても、安定して使用できたと考えられます。
参考:大洞英一 宮古街道の昔話 オオカミと三軒の茶店-幻の榊街道物語-
◆旧大峠発見!(2023年11/3)
平津戸からの旧道は、国道106号線と重なり北東に向かう。山田線に沿って舘ノ沢から蟹沢の閉伊川縁をたどる。もともと大峠は山越えをしていたが、文政期には、大峠の半島状の出っ張りを川沿いに沿う道が下平から小滝へと作られた。川沿いの道は近代になり、馬車などが通行可能な県道へと拡張などがなされた。
2023年11月筆者はそれ以前の峠越えの街道の探索のため、言い伝えの”又右エ門沢を入り…、ぬかり洞に下りる”ということを手掛かりに
まず、大峠から閉伊川に落ちる、蟹沢、又右エ門沢などを、三陸北部森林管理署国有林野施業実施計画図なども参考とし特定するところから調査を行った。その結果判明した国道106号線大峠トンネル盛岡側出口のすぐ南にある又右エ門沢を探索した。その結果沢の最下部に旧道跡が認められ、普段は枯れ沢である同沢の左右に峠に上る旧道が残っているのを追いかけた。標高490~500mの地点で沢沿いの道跡が消えたが、その南側の斜面に続いて、山の斜面を斜行していく二筋の道跡を認め、それを踏査した。上図のごとく道を追いかけてゆくと、旧街道大峠についに至った。そこからくの字に折れるように北行しつつ下って往く道をさらに追いかけてゆくと、真下に宮古側大峠トンネルがあるほぼ直上で二筋の道は合流したが、そこで落ち葉、崩落などで旧道跡は消失しったため北に追いかけることは不能であった。しかし、幕末以前に長期使われてきた”旧大峠”を確認できたことは非常に大きな発見と思う。
なお、この二筋の旧街道は、川井村北上山地民族誌に掲載された”融雪期に現れる旧街道”とされた写真の道に一致すると考えられる。
またGoogle earth Proで雪が残る大峠の写真でみられる二筋の道跡とも一致すると思われる。
又右エ門沢、正面の木の左に旧道跡が残っている。右の沢側は石を積んで補強している。
旧大峠。
左が盛岡方面、右が宮古方向となる。峠部分は無数の人馬牛が通ったことで、うどう道となっている。掘割道造成の跡は認めなかった。
又右エ門沢から西側斜面を斜めに登り峠方向に向かう所に良好な状態で残っている旧街道。
大峠から宮古方向に下る
旧道跡。国道106号線の大峠トンネル宮古側入り口の真上で落ち葉の中に道跡は消える。
B)小滝、焼巻から川井
C)袰岩~茂市
◆旧古田村の”十二曲”踏査報告(2023年12月16日)
西家地内の山田線のトンネルの宮古側の南に接するお宅の許可の元、そこから斜面を登り十二曲の峠を目指し踏査した。
尾根の東側、国道~山田線のラインの南側に明らかな旧道跡は認めなかった。急斜面を蛇行しつつ登り尾根に着くと、すぐ北側尾根に浅い掘割で作られた峠を確認できた。その掘割のすぐ北側に文久年間の三峰山の石碑を認めた。峠から盛岡側を見ると崖と言ってよい急斜面で国道のトンネル、盛岡側出口を見下ろすような急斜面であった。その急斜面を4-5m程で折り返しを繰り返す九十九折れ道が国道真上まで続いているのを認め、そこを下り九曲まで降りた。その下は道が脆く道跡もはっきりしなくなり、石を落とすともろに国道上に落下する可能性があったため、断念し引き返した。峠から東斜面を北行する旧道があり、それを追いかけて徐々に下っていった。しかし眼下に国道北側に空き家となった家があるあたりで、土砂などで旧道は埋没し消滅をみたため、ここまで確認し、その地点から斜面をまっすぐにジグザグしつつ下り、その空き家あたりに下りることができた。
”左迂壷”の大難所を回避するためとは言え、また距離が短いとは言え、大難所と考えられる。十二曲を越えない場合は、西家の半島のような西側は岩壁であるところを、川沿いに回るしかなかった。
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